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第6話 赤星、暴走す

Author: いろは杏
last update Last Updated: 2025-10-23 19:00:00

 やはりと言うべきか、『ラストホープ』において、最初の一拍を強く叩くのは猛だった。

「よし、まずは現場検証だ! 犯人が何か手がかりを残してるはずだ!」

 威勢のよい声とともに猛は飛び込み、文字通り美術室を駆け回り始める。彼の頭の中には『物理的な証拠こそが真実に至る最短路』という単純で力強い図式がある。

 これまでの人生で、身体を動かせば多くの局面を切り開いてきた。その成功体験は確かだが、探偵に求められる最初の一手――静かな観察――とは往々にして相性が悪い。

「どこだ、どこだ――!」

 床に這いつくばって隅を覗き、展示台の周囲をぐるぐる回り、画材の棚の扉を乱暴に開けては中身をかき混ぜる。刷毛がばさりと揺れ、木箱がこすれて乾いた音を立て、フェルト片がふわりと舞う。

『現場はそのまま』が絶対の定石なのだが、猛の熱意と焦燥は、今まさにその現場を上書きしていた。

「うーん、何もねえなあ……おかしい……」

 彼は眉をしかめ、さらに探そうと身を乗り出す。

 青野は、その背中に一度だけ視線を置いてから、あえて止めない選択をした。ここで怒鳴っても、彼の闘志と自尊心を削るだけで、戦力には還元されないと判断したのだ。

 彼は別のルートで猛の失点を補うことにして、展示台を観察する。四つ角に薄く残る埃の欠落跡は、像が直上に持ち上げられたのか、それとも手前に引きずられたのか――彼の眼は『動きの痕』を拾い集めることに長けている。

 一方の白河は、タブレットに仮想のグリッドを走らせながら、猛の動線を目で追った。胸の内では悲鳴に近い警鐘が鳴っている。

 現場の指紋、繊維、皮脂、微小片は推理における宝庫であるが、採取前の接触は宝をゴミに変えてしまう。

 彼女は繊維回収テープを取り出しかけて手を止める。いま貼れば、直前に落ちた猛由来の繊維まで拾ってしまう。指先がタブレットの縁で微かに震えた。

 そのとき――

「赤星ィ!! 貴様、何をやっとるか!」

 地の底を這うような怒声が、美術室の空気を一撃で締め上げた。鬼瓦教官だ。重い靴音とともに猛のそばまで詰め寄り、射抜くような眼で睨む。

「き、教官……! いや、俺は証拠を探して――」

「証拠探しで現場を滅茶苦茶にしてどうする! 現場保存! 探偵のイロハのイも知らんのか、このドアホウが!」

 室内のあちこちで静かな視線が動きを止める。

「いいか、探偵はまず観察だ。全ての情報をそのまま受け止め、仮説を立て、優先順位をつけ、検証していく。猪武者のように突っ走ってかき回すのは、ただのバカだ。少しは頭を使え!」

 その言葉は猛にとって痛烈で、同時に的確だった。ぐうの音も出ず俯いた彼の耳に、周囲の囁きが容赦なく刺さる。

「やっぱりな」「最下位は違う」――嘲笑が空気の温度をさらに下げていく。

「……チッ、これだから脳筋は使い物にならん。これ以上現場を荒らすな!」

 吐き捨てるようにそう言い残し、鬼瓦は他チームの指導へ向かった。

 刺すような語の残滓がまだ鼓膜に残るうちに、猛の胸には別の熱が膨れ上がる。屈辱と、見返してやりたいという衝動だ。

 正しさに従って静かにする――それも一つの選択だが、彼の性分は結果で黙らせたい方向へ傾きやすい。ならば、誰も見つけていない決定的な痕跡を掘り当てるしかない――そう思考が短絡する。

 そんな彼の視界に、開いた窓と泥の斑点が飛び込む。窓枠には茶色の塊がいくつか、指先大の大きさで付着している。

 桟の内側には靴底らしき角の跡。窓はちょうど人が通れるほどの幅が開いており、開閉痕の金属擦過は比較的新しい。

 猛は、そこで思考を止めた。足跡がある――ならば外から入ったに違いない。

 外を見れば何かある――頭の中で結論が最短距離で線を結ぶ。先ほどの『頭を使え』の忠告は、一瞬で熱の下に沈む。

「おい、二人とも! やっぱり犯人は窓を使ったんだ! 外を調べる!」

 白河が口を開くより早く、青野が手を伸ばすより早く、猛は身を翻し、窓枠に片足をかけた。

 第一美術室は校舎の二階。大半の生徒にとっては障壁だが、猛にとっては走り慣れた段差にすぎない。

 握った桟の反発を手のひらで読み、身体をしなやかに折り畳む。次の瞬間、彼の影は窓の外へ滑り落ち、地面にほとんど音を立てず着地した。

「さあ、足跡の続きは……って、あれ?」

 教室の外は、建物の基礎を守るための砕石が敷かれ、その外縁に固く乾いた土が帯状に続き、さらに植え込みが控える構造だった。

 しかしながら、そのいずれについても新しい乱れが見当たらず、土の帯も、雑草の茎が数本だけ斜めに寝ている程度で、連続した足跡は形成されていない。

 窓枠の泥と同じ質感の痕跡は、外には見つからない。猛は首を左右に捻り、数メートル先の排水溝の格子、植え込みの根元、校舎壁面の凹凸を確かめる。

「おかしいな……足跡がないぞ? どこに行ったんだ? まさか、ここで靴を履き替えたのか? いや、それとも……」

 彼は可能性を口に出しながら、木の枝を揺すり、土を指で掻き、匂いに鼻を近づける。細部に当たりをつける前に全域を走り回るその捜索は、残念ながら的外れに傾く。

 こうして時間は静かに砂を落とし続けるのだった。

     * * *

 窓の内側では、青野が短く息を吐いた。外に決め手がないことは、入室時の光景でほぼ確信していた。

 窓枠に泥がつけられていたが、それは外から土足での侵入を意味する。

 しかし、この第一美術室は校舎の二階――壁に手足を掛けられるような凹凸もないため、長めの梯子でもかけなければ侵入は困難だ。

 つまり、この土足痕は間違いなくミスリードを促すためにつけられた偽の証拠に他ならない。

 室内の空気は、さっき猛が掻き混ぜた分だけ、いくらか騒がしい。だが少なくとも青野の中では、必要な静けさが戻り始めていた。

 赤星の強みは決定力、そして白河の強みは情報の収束速度と青野は理解している。

 彼は二人の間に細い橋を掛ける役を自覚し、現場の今を保存しながら、次の一手――容疑者の呼び込み順――を決める。

 開始から、まだ数分。猛の失敗から始まった『ラストホープ』の捜査は暗礁に乗り上げたように見えた。

 しかし、その底流では僅かな修正が始まっている。

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